自意識過剰ってどの程度で「過剰」なのだろう

「程度」を測ることが困難であるから、「過剰」とは自意識に由来すると思われる問題の原因として想定されるのであろう。
私的には、道を歩いている最中に「過去の恥ずかしい記憶」を思い出し、その場で蹲ってしまいたくなることはままある。「穴があったら入りたい」とでも云おうか、兎にも角にも居た堪れない状態である。これなど自意識過剰と云えるのだろうか。

>z0racさん

あー、戸惑うんですか。そうなんですか。はじめから吃音だって聞いてるとどう思いますか?よかったら教えてください。

http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20061226/1167143483

お答えします。
まず、「戸惑う」という表現は適切ではありませんでしたね。私の場合、心理的な影響は全くという程ないと思います。
強いて云えば、その発話が「吃音だ」という認識と発話自体の認識がぶつかり、発話内容の認識がやや遅れます。その際のリアクションは、咄嗟のことですので自分でも分かりません。もしかしたら、聞き取れなかったことに対して「眉をしかめる」という反応をしているかもしれません。これは、聞き取れなかった時の私の癖らしいです。
また、認識した以降の会話で齟齬をきたしたことは無いと思います。それは、吃音以外の発話に難のある(ごめんなさい)人との会話でも同じです。余程解らない場合は聞き返す(確認する)こともありますが、大抵の会話は流れと想像で補って話を進めます。


それと、「はじめから吃音だって聞いてる」という状態は、経験したことがないのでなんとも。
過去の吃音癖のある友人との会話で何か難があった記憶はありませんので、見知った友人の場合は特に意識しないのでしょう。が、「聞いている」と「見知っている」は異なるので、どうなるかは分かりません。それでも、上記の通り認識が遅れるか否かの違いだけでしょう。


こんなところでしょうか。
ただ、最近の友人、知人には吃音癖の人は居なくて、もう少し発話に難のある知人が居ます。ですから、吃音癖ではなく、その人との会話の印象が強くなっているかもしれません。この辺りは自分でも意識していませんので、正確に区別して表現するのは難しいです。