「時をかける少女」 - 耳をすませば「欲望せよ!」の声

アニメ映画「時をかける少女」を観た。高い演出力とそれに十二分に応える演技により、非常に完成度の高い作品だと思う。だがどうだろう、これは「良い作品」なのか?

観賞直後は良い作品だと思っていたのだが、どうしても引っかかりが残ったのである。主人公の身代わりにされたことが原因で嫌がらせを受けていた同級生、作品中唯一といっていい「被害者」が、救われないばかりか「危ない奴」として排除されている。

そこからよくよく考えていくと、この主人公は最初から最後まで自らの欲望のみ追いかけている。物語前半の即物的な欲望から後半の「恋」に対する欲望へと対象がレベルアップしてはいるが、本人はただただ欲望に忠実なだけのようだ。

哀れな「被害者」以外も、

  • 男友達が怪我をしそうになるだけでやり直すのに、女友達が怪我をしても「私が何とかする」と言って放置。
  • もう一人の男友達と後輩の仲を取りなそうとするが、その実「失われた告白」を取り戻そうとしている。

こうなると、事故を防ごうとしたのも、死なれちゃ寝覚めが悪いというだけじゃないかと思ってしまう。(或いは、生命至上主義は有効なのか?)

http://d.hatena.ne.jp/genesis/20060724/p1

ということで、ジブリ作品「耳をすませば」との類似を示す人もいらっしゃるが、同じ「青春物語」でも全く違うものではないだろうか。「耳をすませば」は恋による成長物語であり、そのストレートさがかなり痛いとはいえ、主人公は倫理的である。対して「時をかける少女」は、「リセット」という裏技を駆使した欲望の繰り返しでしかない。

耳をすませば」が少々古いのは認めるが、個人的な欲望の追求のみというのも何だか頂けない。