誤読の可能性は広い

私の文章が支離滅裂なのは文才無さの故、言い訳でしかないがご容赦願いたい。駄文をたまにしか書かないブログにはトラックバック自体が珍しいので反応してみたい。


2007-01-16


いや、「支離滅裂」はごもっとも。返す言葉もない。

嫌いだ、と言ってるだけじゃないのか。

どこに禁止のニュアンスがあるのだろう。

嫌いと禁止がイコールで結ばれるってどんな思想よ。

言及記事の方を読まれていないのだろうか。それによって違うのだが。
ある行為をしている(した)相手に対して「嫌いだ」と云うのは、禁止のニュアンスであろう。タバコを吸っている人に対する「私はタバコが嫌いだ」は「やめろ」のメッセージではないか。


言及記事が「嫌いだ」を繰り返すことで「禁止」のメッセージを強く発している(と読んだ)ので、「そこまで云うなら、ハッキリ「やめろ」と云えばいいんじゃない?」というつもりで前記事を書いたわけなのだが。

これはつまり馬鹿が増えたら馬鹿が正義になる(恐れがある)という、まったくもって恐ろしい考え方だ。

集団の中で存在したいのなら集団の規律を守るのが第一のはずだ。

集団の規律を無視して個を訴えるのが社会正義ってそりゃ子供のわがままだろ。

馬鹿が増えた社会ではそれが「普通の人」になる訳で、何が恐ろしいのか理解できない。それとも、一部の知能が高い人間だけで「社会正義」が形成されるべきだと云うのであろうか。ううむ。噛み合っていない気がする。
「馬鹿=不正義」「賢い=正義」の対比に、果たして相関関係があるのであろうか。「馬鹿=善」「賢い=悪」という三流ドラマ的図式は頂けないが、かと云ってその逆も矢張り頂けない。

また、「規律を無視せよ」とは書いていないが、そう主張する気もない。規律を形成する為に「個人の「正しさ」を主張せよ」と云うことで、既存の規律には基本的に従うべきだろう。と云うか、従わなければ規律を形成する意味がない。


残念ながら、言及記事には「社会正義」が何処から現れるのかは書かれていない。が、「社会正義など存在しない」というスタンスでもなさそうである。さて、何処から現れると考えているのか気になる所だ。


最後に本筋ではないが。

別にどんな意見があってもいいと思うんだが、それにはまず間違った解釈をしないってのが必要だと思う。

この意見が一番私と異なる所であろうか。
「間違った解釈をしない」と云うのは「正しい解釈」の存在が前提となる。異なる解釈があったとして、どちらの解釈が「正しい」と誰が決めるのであろうか。
「著者」と云うのは無理である。それでは故人の著書は解釈不能となる。