それは誰のための、何のための自由か?

と問うたのはレーニンだったか。

自由を大事にしない人の多さに驚く - good2nd

ここで語られている「自由」は、自由至上主義における消極的自由に類するものだろうか。
教育問題に対して、義務教育の在り方ではなく教師の消極的自由が焦点となるのは、全く理解できないところである。主張の背骨が根元から折れている感がある。
まともに考えれば、「国旗・国歌による愛国心教育の是非」が争点であろう。当の教師達にとっても、「思想の自由」は戦術的な方便であって、真の主張は「愛国心教育の否定」であると思われる。
万が一、教育の在り方よりも自己の消極的自由を優先するような教師がいたなら、自由至上主義者でない身としては、そのことをもって処分するに十分だと思う。


最近よく愛国心が叫ばれているようだが、その殆どの人は「愛国心教育」を受けているわけではない。「愛国心教育」を行わなければ愛国心が叫ばれない様になる、というわけではないのである。
教育されていないにも拘らず、愛国心が少々過激に語られる捩れは何であろうか。
端的には今までの左翼・中道勢力に対する反動だとは思うのだが、そこには「失われた(与えられなかった)宝」に対する憧憬と理想化もあるのではないか。だとすれば、「愛国心教育」は愛国心を強化するのではなく、過激な愛国心による暴走を防ぐ手段となるかもしれない。安直な逆説だとは思うが。