雰囲気による非難 - 短絡的な報道

「いじめ」は行為ではなく現象だと思う。そこには必ずしも「加害者」はいない。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061001i4w1.htm

記事内容からは教育委員会の対応が不味かったとも思えない。
プレゼンテーションの不味さというのはあるが、当該クラスの児童を守ろうとする意図を想像することは出来る。
遺書には特定の名前が記されていなかったようである。この場合「クラス全員でいじめた」ということだろうか。現象としてはそうであろうが、果たして個々の児童全員がいじめを自覚していたのだろうか。このような状況で「クラス全員が自殺した児童をいじめていた様だ。」などと発表するのが正しいこととは思われない。児童達に向けられる世間の非難を考えれば、慎重になるのは当然だろう。

記事はこの件をして何を訴えたかったのか?

教育委員会の隠蔽体質か?ならば、同委員会による他の「隠蔽」も示すべきであろう。「隠す=邪な考え」という短絡思考で記事が書かれたとしか思えない。
隠すには隠すだけの理由があるとは考えられないか。晒すことが常に正しいことではない。
「いじめ」は社会問題ではあるが、「個々のいじめ」はそうではない。今回の件を公表することによる公共利益を記事からは読み取れない。逆に、クラスの児童の不利益の方が大きいと思われる。

ならば、教育的観点から考えて同委員会があえて伏せるという判断もあるだろう。無論、伏せるだけなら「隠蔽」と云われても仕様がない。学校、教育委員会での本件に対する取り組み全体をもって判断するしかなかろう。そういった取材も行わず、いたずらに「隠した」という報道を行うことに何の意味があるのか。