仰るとおりです

はい。何も云うことがないならトラックバックする必要もない。
自動的にトラックバックされることを忘れていた、単純に私のミスです。


「私には被害が及ばない(だから書かない)」と表明する理由がわからない

それでも、「表明」してしまった以上、反応には応答したいと思います。


まず、誤解と思われる点を釈明。
「被害が及ばない(だから書かない)」と理解されたようですが、その点は私の本意ではありません。
「被害が及ばないから、リアルには書けなかった」ということです。
無論、そんな内的なことも「表明」する必要はないのですが、そこには「表明する日記」という私のブログに対する非常に中途半端な態度があり、このようなミスを誘発した訳です。申し訳ない。


では、なぜ書けなかった*1かと云うと。


私は「いじめ」と云うものを、ゲーム理論的な意味合いにおいて「ゲーム」として捉えております。ですから、「いじめ」に社会的なモノや精神的なモノを想定する必要はなく、逆に不必要なモノを想定することで話を複雑化・幻想化してしまう弊害があると考えます。


さて、「ゲーム」という仕組みがあるなら、当然終了することが可能です。抜本的には仕組みを成立させなければいいわけで、その意味で降りられないゲームはなく「いじめは降りられるゲーム」なわけです。
ただし、これはモデル化というメタな話でのことですから、個々事例に対して具体的な手法を示すものではありません。リアルな手法を考える場合は、個別的要素を考慮した上でそれぞれに戦術を立てる必要がありますが、対応すべき実例が話題として示されているわけでもありません*2


そこで、より汎用的な手法を考えた場合、暴力による強制終了が案として浮かびます。この暴力を外部に求めると教師あるいは警察になるのですが、「教師に云えばいい」で終わるのでしたら今更言及する意味もありません。
では、いじめられている側が暴力を行使できるかと考えると、これもかなり難しい云わざるを得ませんし、例え行使できたとしても強制終了に至らないとも思われます。
ということで、最後に残るのはいじめている側の暴力です。いじめている側の暴力がゲームのルールに収まっている間はゲームは続きます。が、逆にこれをルールに収まらない暴力に変質させれば、それでゲームは終わりです。例えば「唾をかける」などの行為で、いじめる側の「楽しい暴力」を「怒りによる暴力」に変えることが可能でしょう。


いじめる側が「怒りによる暴力」を発動した時点で、理屈上「いじめ」は終わっています。これは「いじめ」ではなく「傷害事件」であり、外部からの介入が可能となります。それでも介入されないとなると、それはもう無法地帯と云うことですので「いじめ」という問題ではありません。


以上が私の考えです。
要約すれば、「いじめ」という処理が困難なものを「傷害」に変化させることで、社会的に処理できる形態にするということになります。
無論、この方法に殊更リアリティがあるなどとは思っていません。この考えをリアルに適用すれば、いじめられている側のコストは非常に高く大きなリスクを負うことになります。ですから、コストやリスクをなるべく低く抑える個別の方策は必須でしょうし、いじめられている側がこのようなコストの高い手段を用いることが可能かどうかは甚だ疑問ではあります。
が、社会的なモノや精神的なモノを想定してファンタジーに陥るよりは、何がしかの実効性があるとも考えています。また、同じコンセプトで別の手法が考察できるかもしれません。


このような考えを「表明」するにあったって、自分に何ら被害も及ばない立場でそれを行うのは、弾が飛んでこない後方から戦争談義をするような後ろめたさがあり、書けなかったということです。
ならば、何も「表明」しないというのが全面的に正しいのですが、それは先に述べたように私のミスです。重ねて申し訳ない。

*1:書かなかったことの説明というのは非常に見っともないと思いますが、ある種の説明責任としてご勘弁を。

*2:ここで話を終わればよかったのですが、踏み込んでしまったのが私の間違いです。