ファンタジーは必要ない

前のエントリで語ったように、いじめに社会的なモノや精神的なモノを想定する必要はない。よく云われる様に動物もいじめを行うのである。
このことを示すために、私が記憶している例を2つほどあげてみる。これらはテレビで放映されていたもので、ネット上でソースとして示すことが出来ないのが残念である。


まず、大型鳥類がネズミのような小型哺乳類を空中でキャッチボールするという例。
最後に小型哺乳類が投げ落とされたことで、これが捕食行為ではないことは判る。文字通り、ネズミをボールとした「キャッチボール」だと思われる。つまり「遊び」である。
しかし、ネズミがこの状態を楽しんでいるとは考え辛く、ネズミに感情移入すればこれは「いじめ」に見えるのである。
この例には、子供のいじめに於いて、いじめる側が「遊び」と感じていることとの共通性が見られる。


次に、鎖に繋がれた犬に猿が手を出す例。この例では、更にゲーム的な性質が伺える。
猿が犬をはたき犬が吠え掛かる。吠えられた猿は逃げるのであるが、犬は鎖に繋がれているため追いかけてこない。犬が吠えるのを止めると、猿が再び犬に近づく。これが繰り返される。
この例では、犬が鎖に繋がれている点が重要で、これがなければ犬が猿を追い掛け回すだけである。
ゲーム的な性質が顕著であるが、犬に感情移入すればこれも「いじめ」に見える。


共生関係を除いて、異なる種の間に社会性があるとは考えられない。それ以上に、精神的な繋がりを見出すことは無理であろう。
無論、これらの例で見出せるのは「いじめ」との類似性である。が、人間の「いじめ」との差異もまた見出せない。更に云えば、人間による動物虐待もまた「いじめ」と呼ばれるのである。


この様に、「いじめ」とは高等生物に見られる非常にプリミティブな行動であり、それ故、どの社会に於いても「いじめ」があり、それは無くならないと云えよう。
だからこそ、「いじめ」に社会的なモノや精神的なモノを見出すのは、ファンタジーでしかないのである。