「可能性がある」は意味論的に間違い

水伝関連を漁ってみた*1ら、阪大に面白いブログがあった。


kikulog - 水伝:mixiに書いたこと

こちらも科学者が水伝批判をしておられる。内容は真っ当と云うか妥当。
だが、モヒカン族の言葉面を捉えた異議で、話は空中分解ならぬ空中戦に突入したようである。「各個散開して敵に当たれ」状態だ。本当にモヒカン族とは困った輩*2である。


そもそも、この話は水伝が科学に対して誹謗中傷を行ったというものだ。誹謗中傷だけなら無視すればいいのだが、それが道徳教育に取り上げられたものだから堪ったものではない。「誹謗中傷を信じないでください」と云うのは当たり前である。最も非難されるべきは、誹謗中傷を道徳教育に使った教師達なのだ。
それだけの話なのに、科学はイマイチ理解していないが論理的な言説は好きというモヒカン達が、被害者である科学でキャンプファイヤーを始めてフォークダンスを踊りだしたわけだ。科学者の方々にはご愁傷様である。


さて、上記の記事に前々から気になってた言い回しがあったので、それに言及してみたい。

>証明できなくても、正しい可能性を秘めている仮説は沢山あるということ

もちろん、論理的にはそのとおりです。沢山どころか、仮説でよければ無限に作れます。

これ、「論理的にはそのとおり」ではない。意味論的に間違っているのである。端的に「可能性」という言葉の誤用なのだ。

(1)物事の実現する見込み。「成功の―」(2)〔哲〕物事の現実の在り方(現実性)に対して,(ありうる)在り方。事柄・知識・能力などの,今実際にそうではないが,そうでありうる範囲・程度のこと。

こちらは電子辞書からの引用だが、ここでは「可能性」の2つの意味が示されている。判り辛いかもしれないが、(1)の意味が「未来に対する言及」であることを押さえれば、(1)と(2)の類型が解ると思う。


つまり、「可能性がある」ことは「今実際にそうではない」ことなのだ。
よって、「正しい可能性」があると云うことは、即ち「今現在は正しくない(もしくは、正しいとは云えない)」と云うことなので、主張の正しさを自ら否定しているのだ。これでは「私が正しいと云ってることは、今実際には間違ってます」と主張する様なもので、意味が通らない。


或いは、元の文章を、「将来正しいと証明される可能性がある」の書き間違いだと、好意的に解釈*3することもできるだろう。が、その場合でも、無前提に「可能性」を使ってしまうと、文の意味が消失するのである。


無前提に未来を「可能性」で語れば、すべての命題が真となる。つまり、「可能性がある」という言葉は意味を持っていないのだ。
極端な話、明日神様が現れて水に言葉を理解する性質を付けてしまえば、水伝は正しいことが証明されるだろう。無前提なら、その「可能性はある」のである。


この「可能性がある」という言葉は、論理的な思考を欠いた時にしばしば現れるように思う。何か云ったつもりになっているが、実は何も云っていないという誤りである。

*1:要するに暇なのである。

*2:私もモヒカンなのであろう薄々の自覚はあるが、それを嫁に確認したりはしない。答えが明白だからである。

*3:回答では、こちらの解釈が好意的に行われたのであろう。