「可能性がある」は「信じている」という意味
前のエントリの続きである。
ブクマコメントでNOV1975さんから「真のモヒカンは言葉面をとらえて議論したりしない」というご指摘を頂いた。モヒカンの皆様、大変失礼致しました。申し訳ない。
言及先からのレスポンスも頂いたので、不肖私めも、前のエントリは単に言葉面を捉えた訳ではない、というところを示したい。
私は、「可能性がある」という言葉*1が、対話の限界点だと考えている。
前のエントリのコメントで、きくちさんより「そういう揚げ足のとりかたをすると、信者*2のかたと喧嘩になっちゃう」というご指摘があったが、全くその通りである。個人的経験では100%喧嘩になった。退路を確保して滅多に100%とは云わない私が、100%と云ってしまう位の100%である。
ただ、「そういう揚げ足のとりかた」と云うのは少し違う様に思う。別の事柄で揚げ足をとっても、必ずしも喧嘩にはならないのである。しかし、この「可能性がある」だけは必ず喧嘩になる。曰く「そんなこと云われると何も云えなくなる。」
また、「揚げ足をとるつもりはないのだが、その言葉には私は意味を見出せないので、申し訳ないが他の言葉で云って貰えまいか」云々とお願いすると、一頻り悶着*3があった結果、出てくるのは「信じている」である。
これは、「信じている」という主観的な言葉を、「可能性がある」という客観的な言葉に置き換えているのだと思われる。
「可能性がある」という言葉は、他の肯定的言説が尽きた後に出てくる、最期の言葉なのであろう。故に、それ以上の反駁は対話として無意味だと考えるのである。