「被害者」というレトリック

私が考える実名主義「小倉氏の主張」の問題点は2chひろゆき氏が示唆する点にある。
氏の倫理に対する態度はまったく支持しないが、その言説の論理性は否定できない。

あくまで発言が個人の名誉をはじめとする様々な法益を侵害すると考えられる場合に、被害者の開示請求により発言者を明らかにできるようにするべきである、といったことに最大の重点があるように思われるからです。

http://d.hatena.ne.jp/rossmann/20080208/1202490128

この記事で述べられる「小倉氏の主張」は私の理解と同じである。故に、私が考える主張の瑕疵もまた引用部分に含まれている。


一般的に「被害者」という考え方はあるが、法的に考えると少々違った話になる。法の下で「被害者」を確定しうるのは裁判によってである。そして、民事訴訟に於いては「被害者」すら存在しない。存在するのは「当事者」のみなのだ。

故に、裁判所以外が「被害者」認定を行うことの問題が発生する。引用部分の「法益を侵害する」や「被害者」は法的判断を前提してしまっているが、その時点ではまだ「法益の侵害」も「被害者」も法的には認められておらず、法益を侵害されたと主張する「当事者」が開示請求を行うということなのだ。


一私企業が他人の利害に関する法的判断を行い得るのか、また行って良いものか?


これに対してひろゆき氏は「判断できない故に開示しない」という立場を採っている。判断しろと云うのであれば間違い様のない判断基準を示せ、そうでなければ自分には判断ができない、と云うことだ。そして「警察の判断」には従う。非常にシンプルで解りやすい「判断」である。

出来ない判断を強いても必ず判断されない事態となる。常に開示請求に応じるか、常に応じないかのどちらかである。現状は後者であるが、この問題を解決しないままただ現状を変えるとなると前者になるしかない。つまり、所定の手続きで開示請求さえすれば個人情報が開示されてしまうのである。


情報開示を行う明確な判断基準が示せない以上、「被害者」という言葉はレトリックでしかない。多くの争い事に於いて当事者双方が自らを「被害者」と呼ぶことを思い出す必要がある。